第2章 藩を動かす側へ
なぜ、大久保は暴発せず、薩摩藩を内側から動かす道を選んだのでしょうか。
大久保利通と西郷隆盛の関係は、1873年の決裂よりずっと前から続いていました。二人は同じ鹿児島城下で育ち、幕末の危機をくぐり抜け、薩摩藩を倒幕へ動かした仲間です。政府で対立した数か月だけを切り取ると、その長さを見失います。
二人を「情の西郷、理の大久保」と分けると分かりやすい反面、大久保が友を案じた手紙も、西郷が担った政治交渉も見えにくくなります。違いがあったとすれば性格の二択ではなく、同じ目的へ向かうときに引き受けた仕事でした。
離れた西郷へ――時機を待つよう伝えた手紙
国立歴史民俗博物館には、1858年末に大久保が西郷へ送った長い書簡が残されています。西郷が薩摩を離れた後、仲間たちが頼みを失うことを大久保は案じていました。また、大事を成すためには時機と立場を見定める必要がある、という趣旨も書き送っています。
当時は島津斉彬が急死し、安政の大獄が続くさなかでした。斉彬のもとで中央政局に関わった西郷は居場所を失い、僧月照と入水を図った後、生き残って奄美大島へ送られます。大久保の手紙は、先の見えない時期に書かれました。
その内容は、ただの励ましを超えています。逸る仲間たちをどう支えるか、今動くべきか待つべきかという政治判断が、友への気遣いと同じ紙面に並びます。友情と実務を分けて考えないほうが、若い大久保の姿に近いのかもしれません。これは書簡から導く読みであり、本人の内心を確定するものではありません。
待つという判断は、何もしないことではありません。大久保は鹿児島に残った仲間をまとめ、暴発を止めながら、藩を内側から動かす道を探します。
精忠組――暴発を止め、藩の中に残る
斉彬の死後、大久保、伊地知正治、吉井友実、有村俊斎、税所篤ら若い藩士は、藩政の改革を求めて結び付きました。後に精忠組と呼ばれる集まりです。
幕府による弾圧が強まると、脱藩して行動しようとする計画も起こりました。鹿児島県立図書館の展示資料では、大久保は動きを藩当局側へ伝え、島津久光らの慰留によって計画は中止されたと説明されています。
仲間の計画を止めた行為だけを見れば、裏切りと受け取ることもできます。結果から見れば、若者たちを藩の力として残したとも読めます。当時の大久保がどちらの言葉で自分の行動を説明したかは別として、彼は藩の外へ飛び出さず、内部の意思決定へ近づく道を取りました。
島津久光の側近へ――権力の内側に入る
大久保は1861年に小納戸役となり、1863年には御側役へ進みました。仕えたのは、藩主忠義の父で実権を握っていた島津久光です。
お由羅騒動で大久保家が処分されたとき、斉彬擁立派と争った側には久光を推す勢力がいました。その久光の近くへ入ることは、過去の感情だけで決められる選択ではなかったはずです。ただし、大久保が胸の内で何を乗り越えたのかを語る史料は確認できません。
久光は1862年、兵を率いて上洛し、幕政改革を求めました。大久保もその政治行動を支えます。同じ年、寺田屋では急進派の薩摩藩士が久光の命を受けた藩士に鎮圧され、有馬新七らが命を落としました。薩摩の内部には異なる考えがあり、藩をまとめること自体が命を伴う政治でした。
その久光と衝突して遠ざけられていたのが西郷でした。大久保が藩の中枢へ近づくほど、西郷の力をもう一度必要とする場面も近づいていました。
西郷を呼び戻す――違う二人が同じ仕事を担う
ひこまる西郷を呼び戻したのなら、二人はずっと同じ考えだったんじゃないの?



同じ目的へ進む仲間でも、立場や方法まで同じとは限らんのじゃ。協力と対立の両方が、二人の関係にはあったんじゃよ。
久光と衝突して再び遠島となった西郷は、1864年に呼び戻されます。大久保はその復帰に働きかけました。以後、西郷は軍事や対外交渉の前面に立ち、大久保は久光や朝廷との調整に深く関わります。
二人の意見はいつも一致したわけではありません。久光との距離も、行動に移る時機の見方も違いました。それでも、片方だけでは薩摩を動かしにくかった。人を引き付けて局面を開く西郷と、開いた道を藩の決定へつなぐ大久保が並ぶことで、薩摩は中央政局で力を持つようになります。
この役割分担を、後世に伝わる名言で説明する必要はありません。残された書簡、役職、二人がそれぞれ立った交渉の場を追えば、違いは十分に見えてきます。
異なる二人を再び結び付けたのは、性格の一致ではなく、薩摩だけでは幕府に対抗できないという現実でした。
昨日の敵・長州と結ぶ
1864年の禁門の変では、薩摩は長州と戦いました。ところが幕府が長州への再征を進めるなか、薩摩は方針を変え、1866年に長州との提携が成立します。
西郷や小松帯刀が長州側との交渉を担い、大久保も薩摩の方針転換を支えました。敵だった相手と手を結んだ経緯は、友情の美談には収まりません。薩摩、長州、幕府、朝廷がそれぞれ別の利害を抱える中で、昨日の関係より明日の力関係を優先した政治判断でした。
このころ大久保が守ろうとした薩摩は、幕府に従う藩から、次の政治体制をつくる側の藩へ変わっています。忠義の相手はまだ薩摩でしたが、その実行方法は旧来の服従から遠ざかっていました。
王政復古――幕府を終わらせる
1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷へ返しました。それでも慶喜と徳川家の政治力が直ちに消えたわけではありません。大久保は岩倉具視らと連携し、徳川中心ではない新体制の樹立を進めます。
同年12月9日(旧暦。現在の暦では1868年1月3日)、王政復古の大号令が出されました。将軍も摂政・関白も置かず、新しい官職によって政治を始める宣言です。その夜の小御所会議では慶喜の辞官納地が争われ、のちの戊辰戦争へつながる緊張が高まりました。
大久保と西郷は、幕府を終わらせるところまで同じ側に立ちました。けれども、幕府という相手が消えると、次は自分たちが国の仕組みを決めなければなりません。薩摩を強くするために働いた二人の前に、薩摩を残すのかという、さらに重い問題が現れます。







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