第5章 友を失った翌年、自らも倒れる
国を一つにするために、大久保と西郷、そして武士たちは何を失ったのでしょうか。
明治六年政変で別れた大久保利通と西郷隆盛の道は、四年後、西南戦争で政府側と反政府側に分かれます。ただし、二人の対立だけで戦争が起きたわけではありません。
その間に、武士の身分と暮らしを支えていた制度が次々と消え、鹿児島には新しい居場所を求める士族や若者が集まっていました。二人が敵味方に分かれるまでを理解するため、まず武士の側に何が起きていたのかを見ていきます。
武士の居場所が消えていく
明治政府は、廃藩置県によって藩をなくし、徴兵令によって武士以外からも兵を集め、秩禄処分で士族への俸禄を整理しました。1876年の廃刀令では、軍人や警察官などを除き、刀を帯びて歩くことも禁じられます。
政府にとっては、身分ごとに異なる権利を改め、全国を一つの制度へ組み替える改革でした。士族の側から見れば、主君、収入、軍事上の役割、刀という身分の印が、数年のうちに失われていきます。
変化に適応して官吏、軍人、教師、実業家などへ移る者もいましたが、すべての士族に新しい仕事が用意されたわけではありません。不満は佐賀、熊本、福岡、山口などで反乱となり、政府は武力で鎮圧しました。
その政府の中心に、大久保がいました。若い日に藩の権力で職を奪われた人物が、いまは制度を変え、他者の古い職分を終わらせる側に立っています。
西郷の私学校――行き場を失った士族が集まる
1873年に政府を去った西郷は鹿児島へ戻り、翌年、私学校を設けました。学校には、政府を辞めて帰郷した士族や若者が集まります。やがて私学校の関係者は鹿児島県政にも強い影響を持つようになりました。
私学校を、初めから反乱軍を育てるための施設だったと決めつけることはできません。西郷には若者を教育する目的があり、地域の士族に新しい拠点を与えた面もあります。ところが政府への不信と強い仲間意識が結び付くと、学びの場は大きな政治勢力にもなりました。
ここで郷中教育を思い出します。西郷と大久保も、年長者と年少者が結び付く鹿児島城下の集団で育ちました。人を育て、支え合う結束は、時に外からの命令を退ける力にもなります。同じ教育文化が西南戦争を生んだと単純化はできませんが、教育が政治と無関係ではいられない一例です。
火薬庫襲撃――大久保が書いた4.8メートルの手紙
ひこまる西郷は関わっていないと信じながら、反乱になれば討つつもりだったの?



個人への信頼と、政府を預かる立場の判断が同じ書簡に残っているんじゃ。大久保の苦しさを想像するなら、まずこの事実から考えたいのう。
1877年1月末、鹿児島の私学校派が政府の火薬庫を襲いました。大久保が伊藤へ書簡を送ったのは、この事件への対応を協議するためです。
1877年2月7日、大久保は伊藤博文へ長い手紙を書きました。長さは4.8メートル。鹿児島の私学校派が火薬庫を襲ったとの知らせを受け、今後の対応を論じた書簡です。
その中で大久保は、西郷隆盛が事件に関わったとは考えられないと判断していました。西郷の人柄と近況を挙げ、大義名分を重んじる彼がそのような行動をするはずはない、と見ていたのです。一方、朝廷に反するなら、たとえ故郷の者でも討つという方針も崩していませんでした。
信じていた友と、政府を預かる責任。その二つが同じ書簡に残ってから十日ほど後、西郷軍は鹿児島を発ちました。
西南戦争――政府の大久保、戦場の西郷
その後、西郷は私学校党の兵を率いて北上しました。西郷がいつ、どのように挙兵を決断したかについては複数の見方があります。最初から政府転覆を計画していたとも、何も決めず周囲に担がれただけとも、簡単には言い切れません。
政府と西郷軍は熊本城、田原坂をはじめ九州各地で戦いました。徴兵によってつくられた政府軍が、士族を中心とする軍と戦う構図には、明治維新後の変化がそのまま表れています。政府軍は兵力と補給を立て直し、西郷軍を鹿児島へ追い詰めました。
東京の大久保と戦場の西郷が、直接刀を交えた事実はありません。それでも一方は政府を支え、もう一方は政府軍から追われる側にいました。1858年の手紙で大久保が生きて大事を成すよう願った友は、19年後、自分がいる政府との戦争を終えようとしていました。
9月24日、城山――友を失う
1877年9月24日、政府軍は城山へ総攻撃を行い、西郷は最期を迎えました。49歳でした。西南戦争もここで終結します。
大久保が訃報に接して号泣した、西郷の手紙を読み返したという逸話は広く知られています。暗殺の日の馬車に西郷の手紙があったという話もあります。しかし、これらは典拠の近さや成立時期を確かめてからでなければ、当日の事実として本文へ置けません。
確認できる史料に限っても、二人の関係は十分に伝わります。若い大久保が西郷へ送った1858年の書簡。西郷が神戸事件の早期解決を大久保へ求めた1868年の書簡。そして、私学校派の事件に西郷は関わっていないと大久保が論じた1877年2月の長文書簡です。
二人は最後まで同じ道を歩けませんでした。それでも、相手を政治上の記号だけで見ていたのではないことが、手紙の往復から伝わってきます。
1878年5月14日、紀尾井坂――大久保も倒れる
西南戦争から約八か月後の1878年5月14日、大久保は参朝のため馬車に乗りました。東京・紀尾井町の清水谷付近で、石川県士族の島田一郎ら6人が一行を襲います。大久保はその場で命を落としました。満47歳でした。
襲撃者たちは政府首脳が権力を独占し、民意を抑え、公金を無駄にしているなどとする斬奸状を掲げました。主張が暗殺を正当化することはありません。ただ、政府と士族の隔たりが、大久保個人への殺意にまで達していたことを示します。
大久保を襲ったのは旧幕府の勢力ではなく、新政府の改革に不満を持つ士族でした。藩をなくし、武士を一身分から国民の中へ組み替えようとした政治家が、士族の刃で死ぬ。そこには作り話を加えなくても、明治維新の一つの結末があります。
途中で断ち切られた仕事
大久保は版籍奉還と廃藩置県を進め、大蔵卿、内務卿として財政、産業、地方行政、警察などに関わりました。1874年には台湾出兵をめぐる交渉のため清国へ渡り、1875年には地租改正事務局総裁と博覧会事務局総裁も務めています。
立憲政体を含む将来構想についても、大久保は意見を残していました。しかし、明治国家の制度が整いきる前に暗殺されます。その死後も内務省は残り、中央政府による地方統治と産業育成は続きました。
一方、大久保のもとへ権限が集中したこと、佐賀の乱で江藤新平の処刑を急いだこと、士族の困窮に政府の対応が追いつかなかったことも消えません。「国のために働いた」という評価だけで、手段まで正しかったことにはならないのです。
功績と傷を並べるだけでは、大久保の人生をどう受け止めるべきかは決まりません。ここからは政策の評価を離れ、忠義と教育という視点から、その選択を考えます。
功績と傷を、何で測るか
今回の出発点となった五冊は、大久保の伝記史料ではありません。時代も立場も異なる本を史実の証明には使わず、大久保の選択を別の角度から考える問いとして読みます。
『武士道』――忠義は誰に向かうのか
精読済みの『“日本人として”私たちの精神 武士道 大切にしたいこと』は、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己などを扱っています。
大久保の歩みを重ねると、忠義の難しさが浮かびます。薩摩藩士として力を得ながら、廃藩置県では薩摩も廃止した。国家への責任を優先したと評価できる半面、主君や故郷から見れば、仕える対象を変えた行為です。また、政策を貫く勇や克己を認めても、江藤の処断や士族への対応に仁が十分だったかは残ります。
大久保が後世の武士道論に従って行動した、という説明ではありません。徳目を一つずつ当てはめると、称賛だけでは収まらない矛盾が見える、という探究です。
教育勅語と修身――藩の後に、人を何で結ぶのか
『教育勅語の真実』『修身 尋常小学校教科書に学ぶ』『いま日本人に読ませたい「戦前の教科書」』は、国家と道徳教育の関係を考える本です。教育勅語が発布されたのは1890年。大久保の死から12年後であり、彼を直接の設計者として書くことはできません。
それでも、大久保の時代とのつながりはあります。廃藩置県によって、人々を地域の藩へ結び付けていた政治制度は消えました。全国を一つの国家として動かすとき、共通の教育をどう整え、何を国民の道徳とするのかという課題が残ります。三冊が扱うのは、その後に国家が示した答えと、その評価です。
教育は国家戦略か――人を育てることと国をつくること
『教育の正体――国家戦略としての教育改革とは?』は、教育を個人の成長だけでなく、国家の方針と結び付く営みとして論じます。これを大久保の伝記へ直接持ち込むのではなく、郷中、私学校、近代学校制度を「人を育てる場であると同時に、どの共同体へ結ぶ場だったか」という共通の問いで見ることができます。
大久保利通を、きれいに終わらせない
大久保の人生には、分かりやすい報いがありません。藩の政争で職を失い、復職して薩摩を動かし、その薩摩藩をなくしました。西郷と国をつくり、西郷と別れ、西郷の挙兵を初めは信じず、最後には政府側で戦争を終えました。
その翌年、大久保自身も士族に殺されます。彼の死によって、急な近代化が正しかったとも、間違っていたとも決着しませんでした。制度は残り、傷も残りました。
だから、この生涯を「冷酷な独裁者」か「無私の英雄」のどちらかへ片づけないほうがよいと思います。大久保の強さは、仕事を途中で投げなかったことにあります。大久保の危うさは、自分が必要と見た仕事を進める力が大きすぎたことにあります。
1858年、遠くにいる西郷へ手紙を書いた青年と、1877年、伊藤へ4.8メートルの書簡を書いた内務卿。その間に、幕府も藩もなくなりました。変わり続けた時代の中で、大久保は書き、決め、働き続けた。その手が止まったのは、清水谷を通った朝でした。
参考資料・参考図書
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像 大久保利通」
- 国立国会図書館「あの人の直筆 大久保利通書簡」
- 国立国会図書館「大久保利通関係文書」
- アジア歴史資料センター「大久保利通」
- 国立歴史民俗博物館「大久保利通とその時代」
- 鹿児島県「お由羅騒動」
- 国立公文書館「岩倉具視らが欧米に派遣される」
- 国立公文書館「近代国家 日本の登場 岩倉使節団」
- アジア歴史資料センター「岩倉使節団――海を越えた150人の軌跡」
- 国立公文書館「贈右大臣正二位大久保利通送葬略記」
- 山村竜也『世界一よくわかる幕末維新』祥伝社(大久保利通の関連箇所:pp.57–58、160–161、229–263)
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社(明治初期の制度・士族反乱:pp.42–84)
- 新渡戸稲造『武士道』奈良本辰也訳・解説、三笠書房(pp.25–39、63–98、151–166)
- 海原徹『武士の子・庶民の子』平凡社(pp.18–24、53–59、95–102、163–177)
- 伊藤哲夫『教育勅語の真実』致知出版社(pp.33–36、77–85、133–168)
- 八木秀次『明治憲法の思想』PHP新書(pp.126–136、234–239)
- 『修身教授録』致知出版社(『武士道』受容と教育的解釈:pp.479–495)







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