第3章 故郷の藩をなくす
なぜ、大久保は自分を育てた薩摩藩までなくし、日本の仕組みを作り替えたのでしょうか。
幕府を倒した後、大久保利通は自分を育てた薩摩藩までなくす側へ回りました。大久保の生涯で最も大きな転換は、敵に勝ったことより、味方を特別扱いしなかったことにあります。
廃藩置県は、全国を一つの政府で治めるための改革でした。同時に、武士が主君から禄を受け、藩に属して生きる仕組みを崩す一歩でもあります。中央集権化の成果と士族の喪失は、最初から同じ改革の中にありました。
幕府が消えたことと、全国を一つの政府が治められることは同じではありません。新政府が最初に向き合ったのは、自分たちを支えた藩の力でした。
幕府は消えても、藩は残った
1868年に新政府が発足した後も、各地の土地と人民は藩との結び付きを保っていました。政府が全国共通の税を集め、軍を持ち、法令を行き渡らせるには、藩ごとに分かれた統治を改める必要があります。
戊辰戦争を戦うため、新政府は薩摩、長州、土佐、肥前など有力藩の兵力と財力に頼っていました。藩をなくしたい政府ほど、当面は藩の力を必要とする。理念だけでは解けない矛盾を抱えていたのです。
大久保や木戸孝允らが直面したのは、勝者となった有力藩に、自らの権限を手放させる仕事でした。中でも薩摩は、維新を軍事面で支えた最大級の藩です。
版籍奉還――土地と人民を返しても、藩は残る
1869年、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主が、土地と人民を朝廷へ返すことを願い出ました。版籍奉還です。他の藩もこれに続きました。
旧藩主は知藩事となり、政府から任命されて引き続き地域を治めます。領地と領民が藩主の私有ではないことは示されましたが、統治する顔ぶれも、地域の仕組みも大きく残りました。
版籍奉還は、藩を政府の下へ置く途中の段階でした。名義を変えても、財政難の藩と独自の兵は残ります。
土地と人民を朝廷へ返すだけでは、全国を一つの制度で動かせませんでした。政府は次に、藩そのものをなくす決断へ進みます。
廃藩置県――薩摩も例外にしない
ひこまる薩摩だけは残す、という選択はできなかったの?



薩摩を例外にすれば、ほかの藩にも従わせにくくなる。大久保は故郷を守るより、制度を全国へ通す道を選んだんじゃ。
1871年7月14日(旧暦)、政府は廃藩置県を断行しました。藩を廃止して府県を置き、旧藩主の知藩事を東京へ移し、中央政府が府知事・県令を任命します。政府は薩摩・長州・土佐から集めた御親兵を背景に、反対に備えました。
大久保はこの決定を進める中心の一人でした。廃止される藩の中には、もちろん薩摩も入っています。久光の側近として政治の場を得て、薩摩の人脈と力を使って新政府へ進んだ大久保が、その薩摩を制度上の例外にはしませんでした。
この行動を、藩への忠義を捨てたと読むことはできます。忠義の向かう先を、藩から国家へ移したと読むこともできます。いずれの言葉を選んでも、藩に暮らす側の現実は急には切り替わりません。藩士にとって藩は、給料を受け取る役所であると同時に、主君、家、仲間、名誉が結び付く世界でした。
薩摩の士族が感じた喪失を、大久保がどの程度見通していたかは慎重に考える必要があります。廃藩置県から西南戦争まで、わずか六年でした。
藩をなくした後に残ったのは、国全体の収入、支出、役所を組み直す仕事でした。倒幕の政治家だった大久保は、行政を担う政治家へ移っていきます。
大蔵卿――倒幕から行政へ
廃藩置県の後、大久保は大蔵卿となります。国の財布を扱う大蔵省は、当時、財政だけでなく広い行政分野に関わる巨大官庁でした。
全国政府を名乗るなら、各地の収入と支出を把握し、役所の仕組みをそろえなければなりません。幕府を倒す政治には敵と勝敗が見えましたが、国家を動かす仕事には、会計、法令、人事、期限が延々と続きます。記録所書役助から始まった大久保は、国全体の実務を預かる位置へ来ていました。
その仕事を抱えたまま、大久保は長く日本を離れる準備に入ります。海を渡る前、鹿児島に残した妻子へ手紙を書いていました。
国を離れる前、鹿児島の妻子へ
国立歴史民俗博物館には、1871年8月24日、大久保が東京から鹿児島の妻子へ送った書簡が残されています。廃藩置県の約一か月後であり、岩倉使節団の出発を控えた時期です。
大久保は政治の中心にいながら、家族と離れて暮らす時期を重ねました。鹿児島、京都、東京を移り、やがて海を越えます。公文書に残る大久保と、家族宛の手紙に残る大久保は同じ人です。
同年、長男の利和と、親族の牧野家を継いだ次男の伸顕も渡米し、留学生活へ入ります。伸顕は後年、大久保が子どもを好み、わずかな暇にも書斎へ呼んだと回想しています。これは1910年の新聞に掲載された息子の回想であり、同時代の家族証言として由来を示した上で扱うべき話です。
家族を海の向こうへ送り出した同じ年、大久保自身も欧米へ向かいます。今度の目的は、一つの制度や工場ではなく、国を動かす仕組みそのものを見ることでした。
岩倉使節団――欧米で国力の差を見る
1871年11月、岩倉具視を特命全権大使とする使節団が横浜を出発しました。副使は木戸孝允、大久保、伊藤博文、山口尚芳。使節、随員、留学生を含む大きな一行でした。
目的には、各国元首への国書奉呈、条約改正の予備交渉、欧米の制度や産業の調査がありました。ところが米国での交渉は、使節団に必要な全権委任状がないという問題にぶつかります。大久保と伊藤は委任状を得るため一時帰国しましたが、条約改正は実現しませんでした。
出発したばかりの政府首脳が、外交の手続きでつまずく。明治日本と欧米列強の差は、工場や軍艦の数にとどまりません。条約を結ぶ権限、国内法、交渉を支える組織まで含めて、国の仕組みが問われました。
制度の差を知った大久保は、宮殿や議会だけでなく、その国を日々支える生産の現場にも足を運びます。
工場で見た「国を支える力」
使節団は政治制度だけでなく、学校、裁判所、軍事施設、鉱山、鉄道、農場、工場などを見て回りました。英国から西郷と吉井友実へ出した大久保の書簡には、バーミンガムのビール製造所を視察したことも記されています。
ビール工場は小さな挿話に見えます。しかし、原料を集め、機械で製造し、品質をそろえ、商品として広く売る現場には、産業国の力が凝縮されています。大久保が個々の視察を帰国後のどの政策へ直結させたかは断言できないものの、彼が宮殿の外にある生産の現場まで見ていたことは分かります。
この視察が帰国後の殖産興業へどこまで直結したかは断言できません。それでも、海外で受けた衝撃を「日本は遅れている」という嘆きで終わらせず、予算と役所の仕事へ移していくところに、大久保の政治家としての特徴があります。そうして日本へ戻ろうとしたとき、国内の政府はすでに別の時間を過ごしていました。
帰国――日本では別の改革が進んでいた
使節団の本隊が帰国したのは1873年9月です。予定を大幅に超える長い旅でした。その間、日本に残った西郷、江藤新平、板垣退助、大隈重信らは、学制、徴兵令、地租改正など国内の課題を進めていました。
欧米を見た者と、日本に残った者。両者は同じ国のために働きながら、違う現実を経験していました。帰国から一か月ほどで、そのずれは朝鮮への使節派遣をめぐって政府を割ります。
薩摩藩をともになくした大久保と西郷は、今度は新しい国家の進む順番について、同じ答えを選べませんでした。







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