第4章 国を動かし、友と別れる
なぜ、共に国をつくった西郷と別れ、大久保は行政の力を握ったのでしょうか。
1873年、大久保利通と西郷隆盛は、朝鮮への使節派遣をめぐって別れました。友情が突然憎しみに変わったからではありません。使節を今送るのか、国内の整備を先にするのか。政府が一度決めた方針を、誰がどの手続きで覆せるのか。政策と権力の争いが、長い友人関係をのみ込みました。
二人の対立を、近代化への賛否や性格の違いだけで説明することはできません。欧米にいた者と日本に残った者が過ごした別々の二年から、同じ政府に戻れなくなるまでを順に見ていきます。
二年間で生まれた「二つの政府」
岩倉使節団が欧米を巡っている間、西郷、江藤新平、板垣退助、大隈重信らが留守政府を担いました。出発前には、使節団の帰国まで大きな改革を避ける申し合わせがありましたが、国内の仕事は待ってくれません。学制、徴兵令、地租改正など、暮らしと国家の形を変える政策が進められます。
海外にいた大久保たちは、条約交渉で日本の立場の弱さを知り、欧米の制度と産業を見ました。日本に残った西郷たちは、士族の不満、財政、外交案件に日々対応しました。両者とも現実に向き合いながら、その現実が違っていたのです。
帰国した使節団側には、留守中の改革が進みすぎたという不満がありました。留守政府側には、国外にいた者から仕事を否定される思いがあったはずです。後半は状況からの推測で、個々人の言葉としては断定できません。政策論だけでは説明しきれない距離が、政府内に生じていました。
こうして生まれた距離が、帰国直後の朝鮮問題で表面に現れます。
西郷は朝鮮へ行こうとした
日本と朝鮮の国交問題が行き詰まるなか、西郷は自ら使節として渡る案を主張しました。この議論は一般に「征韓論」と呼ばれます。ただし、西郷の使節派遣案と、直ちに朝鮮へ出兵する案を同じものとして扱うと、当時の議論を単純にしすぎます。
西郷の案には、交渉が決裂して自身が殺されれば出兵の理由になる、という趣旨を含む書簡もありました。平和使節か開戦への道かを、きれいに切り分けられない提案です。
大久保は派遣の延期を求めました。欧米との国力差を見たばかりの日本が、国内の制度と産業を整えきらないまま新たな外交危機を抱えることに反対したのです。そこには内政優先の判断とともに、留守政府主導で進んだ決定を帰国組が取り戻す政治闘争もありました。
10月17日の辞表――大久保も最初から勝者ではなかった
ひこまる大久保は政府に戻って西郷と争おうとした、という単純な話ではないの?



10月17日に残した文書は参議を辞める理由を書いたものじゃ。政変の最中の動きは、一つの決意だけでは説明できんのじゃよ。
大久保は三条実美や岩倉具視らの要請を受け、参議に就任して反対側へ立ちました。ところが10月15日の閣議で、西郷の派遣がいったん内定します。
国立国会図書館に残る10月17日付の文書は、参議辞任の趣意書です。大久保は「奉職の目的立ち難く」と記しました。自分の主張が通らないなら職を辞すというところまで、対立は深まっていました。
しかし、辞表を出したことだけでは政変の結果は決まりませんでした。政府の決定手続きそのものが揺れ、二人は政治の上で別れることになります。
明治六年政変――政治で別れた二人
太政大臣の三条が病に倒れた後、太政大臣代理となった岩倉は、西郷派遣の決定をそのまま上奏しませんでした。10月24日、明治天皇は岩倉の奏上を受け入れ、派遣は無期延期となります。西郷、江藤、板垣、副島種臣、後藤象二郎らは政府を去りました。
大久保は勝ち、西郷は負けた――結果だけを言えばそうなります。ただ、大久保も辞表を出し、政府の決定手続きは大きく揺れました。明治六年政変は、整った制度の中の多数決よりも、新しい政府そのものの運用を争う出来事でした。
鹿児島へ帰ろうとする西郷を大久保が止めたという話や、二人が交わしたとされる言葉は、後世の回想に残っています。人物の気持ちを近く感じさせる逸話ですが、語られた時期と典拠を確かめずに会話を再現すると、史実と物語の境目が消えます。
同時代の経過から確かめられることは明瞭です。幼いころから同じ町で育ち、若い日に『近思録』を読み、幕府と藩をともに終わらせた二人は、1873年10月を境に同じ政府で働かなくなりました。
西郷が去った席に大久保が残ったことは、私生活上の絶交を証明しません。反対に、友情が政治の外で変わらず続いたと美しく描くこともできません。史料が示す距離を保ったまま読むほうが、別れの重さは薄れないはずです。
西郷が政府を去った翌月、大久保は新しい統治機構をつくります。友との別れの後に彼が担ったのは、国家を制度で動かす仕事でした。
政変の翌月、内務省をつくる
政変の翌月、大久保は内務省を設置し、初代内務卿となりました。内務省は地方行政、警察、産業振興、土木など、国内統治の広い領域を扱います。
欧米で見た工場や交通網を日本に移すには、構想だけでなく、資金を配り、官吏を動かし、地方と交渉する組織が要ります。大久保は殖産興業を進め、官営事業、農業振興、博覧会、交通・通信の整備などに関わりました。現代の省庁一つに置き換えにくいほど、内務省の守備範囲は広いものでした。
同時に、地方と警察を握る官庁が大久保のもとに置かれたことで、権限の集中も進みます。政策を早く実行できる体制は、反対意見を押し切れる体制でもありました。「大久保独裁」「有司専制」という批判には、こうした権力構造が背景にあります。
その大きな行政機構が持つ力は、まもなく政府に反対する者を鎮圧する場面でも使われます。
佐賀の乱――行政の力が鎮圧の力になる
政府を去った江藤新平は佐賀へ戻り、1874年、不平士族に擁立されて挙兵しました。佐賀の乱です。大久保は自ら九州へ赴き、鎮圧の指揮を執ります。
国立歴史民俗博物館には、3月24日、大久保が江藤の逮捕を岩倉へ報告した書簡が残っています。江藤は捕縛後に裁判を受け、4月13日に処刑されました。反乱鎮圧を急いだ政府の立場とは別に、裁判の手続きと刑の重さ、大久保の関与には後世まで厳しい批判があります。
江藤は直前まで同じ政府にいた人物で、司法制度の整備に力を尽くした初代司法卿でした。その江藤が、十分な司法手続きを欠いたと批判される裁判で命を落とす。ここには、法による国家をつくる時代が、政治の力を法より先に使った矛盾があります。
大久保の仕事を評価するなら、殖産興業の成果だけでなく、この場面にも立ち止まらなければなりません。国を守るという目的は、選んだ手段への検討を不要にはしないからです。
次の火種は鹿児島に積もっていた
明治六年政変の後、西郷は鹿児島で私学校を設けます。政府では大久保が内務省を動かし、士族の特権をなくす改革が続きました。
佐賀だけでなく、熊本、福岡、山口でも士族反乱が起こり、政府は武力で鎮圧しました。鹿児島では私学校が士族や若者の拠点となり、県政にも強い影響を持つようになります。
東京で制度を動かす大久保と、鹿児島で人々に慕われる西郷。二人が離れていた四年の間に、政府と故郷の距離も広がっていました。鹿児島に集まった不満は、やがて私学校を中心に政府へ向かう力になっていきます。







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