
大久保利通は、薩摩に生まれ、薩摩の力で幕府を倒し、最後には薩摩藩をなくす側へ回った政治家です。
廃藩置県によって藩を廃止し、岩倉使節団で欧米を見た後は、初代内務卿として産業と地方行政の整備を進めました。現在まで続く日本の国の形は、この時代に輪郭を現します。その中心にいたのが大久保でした。
改革は、多くの人から古い身分と暮らしを奪いました。同じ鹿児島城下で育った西郷隆盛も、やがて政府を去り、薩摩の士族を率いる側に立ちます。西郷が城山で死んだ翌年、大久保も不平士族に襲われ、47年の生涯を閉じました。
冷たい現実主義者という評判からは、なぜそこまで仕事を急いだのかが見えてきません。近代化の英雄という呼び名も、その政治が残した傷を隠します。功績と反発が同じ政策から生まれたことを、人生の順にたどってみましょう。
大久保利通の基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 人物名 | 大久保利通(おおくぼ としみち) |
| 生没年 | 1830年9月26日〜1878年5月14日 |
| 出身 | 薩摩国鹿児島城下 |
| 通称 | 正助、のち一蔵 |
| 号 | 甲東 |
| 主な役職 | 薩摩藩士、明治政府参議、大蔵卿、初代内務卿 |
| 主な事績 | 王政復古、版籍奉還・廃藩置県、岩倉使節団、殖産興業、地方行政の整備 |
| 最期 | 紀尾井坂の変で暗殺。満47歳 |
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第1章 権力に職を奪われた青年
なぜ、権力に職を奪われた青年は、藩を捨てずに残ったのでしょうか。
大久保利通の政治人生は、出世より先に失職を経験しています。20歳のころ、本人の働きとは別のところで起きた藩内抗争に巻き込まれ、職を解かれました。父も処分され、一家の暮らしまで揺らぎます。
のちに明治政府の中心へ上る人物が、若い日に見たのは、正しさだけでは動かない権力でした。ここから大久保の生涯を始めると、彼がなぜ政治の力を必要とし、実務に執着したのかが少し見えやすくなります。ただし、この経験が後の政治姿勢を決定したと本人が語った史料はなく、因果関係は断定できません。
その出発点を知るために、まず西郷らと過ごした鹿児島城下へ戻ります。
鹿児島城下で出会った仲間たち
1830年9月26日、大久保は薩摩国鹿児島城下の高麗町に生まれました。父は薩摩藩士の大久保利世です。一家は後に加治屋町へ移り、大久保は西郷隆盛、吉井友実、伊地知正治らと同じ地域で育ちました。
現在の鹿児島市では、甲突川に近い一帯に大久保と西郷の生誕地碑があります。二人の名は維新後の対立とともに語られますが、人生の出発点は驚くほど近い場所でした。
当時の彼らは、後の国家を思い描いて集まった「維新の卵」ではありません。薩摩藩という枠の中で生きる藩士の子にとって、家の身分と役目を受け継ぐことが現実の将来でした。
郷中と『近思録』――共に学び、別々の答えを選ぶ
薩摩には、同じ地域の年長者が年少者を教える郷中教育がありました。読み書きや武芸だけでなく、礼儀、集団の決まり、先輩と後輩の関係を日常の中で覚えていく仕組みです。
後に維新を担う人物が多く育ったため、郷中教育は人材育成の成功例として紹介されてきました。しかし、厳しい上下関係を伴い、教育の中心が男子であった点も含めて見なければ、制度の半分しか見えません。
大久保の組織力を郷中だけで説明することもできません。ただ、年齢も役割も違う仲間の中で、自分の位置を測りながら動く経験は、彼の少年期に確かにありました。その学びは、仲間と同じ本を読む場へも続きます。
国立歴史民俗博物館の企画展解説によると、若い大久保は西郷、伊地知、吉井、海江田信義らと勉強会を開き、朱子学の入門書『近思録』を輪読していました。
この集まりを、維新の英雄たちの英才教育として美しく整えすぎる必要はないでしょう。まだ何者でもない若者たちが一冊の本を囲み、古人の言葉を手がかりに、自分たちの身の処し方を考えていた。残された情報から言えるのは、そこまでです。
やがて仲間たちは、藩の政争、幕府と朝廷の対立、外国との衝突に別々の立場で向き合います。同じ本を読んでも、結論は同じになりませんでした。共に学んだ若者たちは、やがて本の外にある政治へ出ていきます。大久保が最初に立ったのは、刀を振るう場ではなく、文書を扱う記録所でした。
16歳、記録所へ――政治は文書で動く
1846年、大久保は記録所書役助となりました。藩庁で文書や記録を扱う補助役です。
刀を抜くような華やかさはありませんが、政治は記録なしには動きません。誰から何が伝えられ、どのような命令が出され、何を残すのか。若い大久保が最初に身を置いたのは、そうした実務の現場でした。
後年の大久保も、演説で人を熱狂させるより、意見書を書き、役所をつくり、人と予算を動かすことで政策を進めます。記録所の経験と後の政治手法を直接結ぶ証言は確認できませんが、彼の出発点として覚えておきたい役目です。
ところが、文書で藩を支え始めた青年は、まもなくその藩の政争によって職を奪われます。
お由羅騒動――父と職を奪われる
ひこまる大久保自身が政争を起こしたわけではないのに、どうして職を失ったの?



父が反対派と見なされ、家族まで処分の余波を受けたんじゃ。藩の中で生きる武士は、家と政治を切り離せなかったんじゃよ。
薩摩藩では、藩主島津斉興の後継をめぐり、斉彬を推す側と、斉興の側室お由羅の子・久光を推す側が激しく争いました。処分は斉彬擁立派へ広がり、鹿児島県の解説では、切腹、遠島、役職罷免などに及んだ者は50人余りとされています。お由羅騒動です。
大久保家も無傷では済みませんでした。父の利世が処分され、大久保自身も1850年に免職・謹慎となります。藩庁に勤め始めてから、わずか数年後のことでした。
失職中の家の暮らしについては、友人から助けを受けた話などが後世に伝わっています。ただし、語られた時期や典拠を確かめず、貧困を劇的に描くのは避けます。公的な人物解説で確認できるのは、父子が処分され、大久保が職を離れたことです。それだけでも、一家の生活が揺らぐには十分でした。
藩を捨てず、三年後に戻る
1851年、島津斉彬が藩主となり、処分された人々の復権が進みました。大久保は1853年に記録所へ復職します。
この三年間、大久保が胸の内をどう整えたかは分かりません。怒りをのみ込んだのか、機会を待ったのか、家族を支えることだけで精いっぱいだったのか。史料のない場所へ、もっともらしい独白を置くことはできません。
分かるのは、彼が藩を離れず、元の実務へ戻ったことです。復職から五年後、大久保は薩摩を離れた西郷へ長い手紙を書きます。そこには、挫折を知る若者が身につけた、時機を待つ言葉が残っていました。







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