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元田永孚とは?明治天皇の教育思想を支えた儒学者

元田永孚と明治天皇の教育思想を解説するアイキャッチ画像
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元田永孚もとだながざねは、明治天皇に儒学を講じ、明治初期の道徳教育に深く関わった熊本出身の儒学者です。教育勅語の起草では、仁義忠孝を重んじる教育思想を提示し、井上毅とともに最終文面を形づくりました。

目次

教育勅語を歴史から考える|全10回シリーズ

現在のページ 第5回|元田永孚とは?明治天皇の教育思想を支えた儒学者
全10回の目次から選ぶ
  1. 概要教育勅語とは?学校が天皇と国民を結びつけた仕組み
  2. 第2回教育勅語はなぜ作られた?明治日本が求めた道徳教育
  3. 第3回教育勅語はどのように作られた?起草から発布までの流れ
  4. 第4回井上毅とは?教育勅語の起草に込めた思想
  5. 第5回元田永孚とは?明治天皇の教育思想を支えた儒学者
  6. 第6回教育勅語には何が書かれている?十二の徳目をわかりやすく解説
  7. 第7回教育勅語はなぜ失効した?戦前の運用と1948年の国会決議
  8. 第8回教育勅語は命令ではなかった?起草時の配慮と学校教育での位置づけ
  9. 第9回教育勅語は儒教道徳だったのか?井上毅と元田永孚の思想
  10. 第10回教育勅語の光と影|成立理念と学校での運用を分けて考える

この記事でわかること

  • 元田永孚の生涯
  • 明治天皇への進講と教育思想
  • 教学聖旨と教育勅語の関係
  • 井上毅との共通点と相違点

熊本藩の儒学者として学んだ

元田永孚は1818年、熊本藩士の家に生まれました。藩校の時習館で学び、横井小楠にも師事します。幕末から明治にかけて、儒学を古い知識として守るだけでなく、政治と教育を支える実践的な教えとして考えました。

1871年に宮内省へ出仕し、その後、明治天皇の侍講として『論語』などを進講しました。天皇の身近で学問を講じる立場から、天皇自身の徳を高め、その徳が政治と国民へ及ぶことを重視します。

知識より先に道徳の基礎を置こうとした

明治政府が西洋の学問や制度を急速に導入するなかで、元田は知識や技術だけの教育に危機感を持ちました。人が学問を何のために使うかを決める道徳がなければ、知識は社会をよくする力にならないと考えたのです。

元田が重んじたのは、仁義忠孝を中心とする儒学的な徳目です。ただし、その目的は個人の修養だけではなく、天皇の徳と国民の道徳によって国を安定させることにありました。

ひこまる

元田永孚は、西洋の学問を全部否定したの?

やたまる

学問そのものより、学問の土台に何を置くかを問題にしたのじゃ。道徳を根本に置こうとしたのじゃよ。

教学聖旨で徳育重視を訴えた

1879年に示された「教学聖旨」には、元田の教育思想が強く表れています。西洋の知識に偏った教育を見直し、仁義忠孝を根本に据えるべきだという内容でした。

教学聖旨の考えは、そのまま教育制度全体の方針になったわけではありません。しかし、国民教育の精神的な基準をどこに置くかという問いを明確にし、後の教育勅語へつながる思想の流れを作りました。

教育勅語の起草にどう関わったのか

1890年に教育勅語の起草が進むと、元田は草案を作り、井上毅の案にも意見を述べました。国立国会図書館の元田永孚関係文書には、「教育大旨」草稿や複数の教育勅語草案が残されています。

元田は天皇と臣民の道徳的な結びつきを強く表そうとしました。一方、井上は特定の学説や宗教に偏らず、政治的命令にならない文章を求めました。最終的な教育勅語は、元田案をそのまま採用したものではなく、両者の調整を経て成立しています。

実は元田自身も、儒教の「五倫」を軸にした独自の草案をあらかじめ用意していました。しかし元田は、井上の識見と人格を高く評価し、自らの草案を表に出さず、井上案を土台に協力する道を選びます。「一点の固執心こそ悪魔と存候」、自説へのこだわりこそ悪魔である、という言葉を手紙に残しており、地位や立場よりも、より良い勅語を作ることを優先した元田の姿勢がうかがえます。

井上毅との共通点と違い

元田永孚井上毅
重視したもの仁義忠孝、天皇の徳、儒学的徳育普遍性、非命令性、法的・政治的配慮
主な立場明治天皇の侍講・宮中顧問官法制官僚・法制局長官
共通点教育を国の土台とし、国民が共有する道徳を示そうとした

二人を「伝統対近代」という単純な対立で見ることはできません。元田も明治国家の課題を考え、井上も日本の伝統を重視していました。違いは、どの思想を前面に出し、どのような形式で国民へ示すかにありました。

ひこまる

元田案が採用されなかったなら、元田の役割は小さかったの?

やたまる

そうではないのじゃ。最終文面の背景にある徳育思想と、天皇との橋渡しに大きな役割を果たしたのじゃよ。

元田永孚が明治の教育に残したもの

元田永孚は、近代化のなかで人間の内面と政治を結ぶ教育を求めました。その思想は、家族道徳から天皇・国家への忠誠へ広がる教育勅語の構造に影響を与えます。

同時に、元田の思想を現代の道徳へそのまま置き換えることはできません。立憲国家の制度、天皇主権、国民の権利という歴史的条件のなかで理解することが必要です。

ひこまる

ここまでの話で、出来事の背景と後の影響を分けて見ることが大切だと分かったよ。

やたまる

歴史は一つの言葉だけで決めつけず、いつ、誰が、どのように考え使ったのかを確かめるのじゃ。

明治天皇からの厚い信頼と最期

元田は幼い頃から明治天皇のそば近くに仕え、時に厳しく学問を説いた人物で、早くに父を亡くした天皇にとっては父に近い存在でもあったといわれます。ある年、宮中で「月見の宴」が催された際、元田の詩吟の声が年齢とともに衰えていくことを惜しみ、天皇が「私は菊花よりも元田の詩吟を愛する」と歌われた、という逸話が伝わっています。元田は教育勅語が世に出たわずか2か月後、明治24年に流行性感冒のため亡くなりました。危篤の知らせを受けた天皇は急遽、男爵の位を授けており、その伝達の使者を務めたのが井上毅でした。

元田永孚の教育観から見えること

元田永孚は、明治天皇へ儒学を進講し、徳育を明治国家の土台に置こうとした人物です。教育勅語では、井上毅と異なる立場から意見を出し、伝統的な徳目と近代国家の教育方針を結ぶ役割を果たしました。

教育勅語の全体像は教育勅語とは?学校が天皇と国民を結びつけた仕組みで紹介しています。

参考資料・参考図書

教育勅語を歴史から考える|全10回シリーズ

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  1. 概要教育勅語とは?学校が天皇と国民を結びつけた仕組み
  2. 第2回教育勅語はなぜ作られた?明治日本が求めた道徳教育
  3. 第3回教育勅語はどのように作られた?起草から発布までの流れ
  4. 第4回井上毅とは?教育勅語の起草に込めた思想
  5. 第5回元田永孚とは?明治天皇の教育思想を支えた儒学者
  6. 第6回教育勅語には何が書かれている?十二の徳目をわかりやすく解説
  7. 第7回教育勅語はなぜ失効した?戦前の運用と1948年の国会決議
  8. 第8回教育勅語は命令ではなかった?起草時の配慮と学校教育での位置づけ
  9. 第9回教育勅語は儒教道徳だったのか?井上毅と元田永孚の思想
  10. 第10回教育勅語の光と影|成立理念と学校での運用を分けて考える
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