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日本政党史⑧|男子普通選挙から立憲民政党成立まで

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目次

政治参加が広がっても、選挙だけでは政権を守れなかった

1925年、衆議院議員選挙法が改正され、選挙権に必要だった納税要件が撤廃されました。有権者は約300万人から約1240万人へ増え、25歳以上の男性であれば、原則として納税額にかかわらず投票できるようになります。

これは、自由民権運動以来の長い要求が制度に結びついた大きな変化でした。しかし、政治参加の拡大だけを見て、この時期の政党政治が完成したと考えることはできません。

同じ1925年には治安維持法が制定され、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社などが取締りの対象になりました。女性には選挙権がなく、公私の救恤を受ける人を選挙権から除く規定も置かれました。投票できる人は大幅に増えましたが、すべての成人が政治へ参加できる制度ではありませんでした。

政党の側でも再編が進みます。普通選挙の実現という共通目標を達成した護憲三派は協力を終え、革新倶楽部の多数は立憲政友会へ合流しました。政友会は陸軍出身の田中義一を総裁に迎えます。労働者や農民を代表しようとする無産政党も複数結成され、新しい有権者を誰が代表するのかが問われました。

1927年には、昭和金融恐慌への対応をめぐり、第1次若槻礼次郎内閣が台湾銀行救済のための緊急勅令案を提出します。しかし、枢密院がこれを否決し、内閣は総辞職しました。若槻内閣は総選挙で敗れたのでも、衆議院の不信任決議で退陣したのでもありません。

つまり、1925年から1927年に見えてくるのは、次の二つです。

広がったものなお選挙で動かせなかったもの
納税要件を撤廃した男子普通選挙枢密院、貴族院、軍、官僚、元老・宮中勢力などの影響
新しい有権者を組織する政党活動首相選定や緊急勅令をめぐる明治憲法下の仕組み
労働者・農民を代表しようとする無産政党政治運動を取り締まる治安法制
1924年 総選挙の結果を受けて加藤高明内閣が成立する
↓
1925年 男子普通選挙が成立し、有権者が約4倍になる
+
治安維持法が制定され、政治運動への取締りが整えられる
↓
護憲三派が解体し、政党の再編が進む
↓
1926年 加藤高明の死後、若槻礼次郎が憲政会政権を引き継ぐ
↓
1927年 金融恐慌への対応をめぐり、枢密院が緊急勅令案を否決する
↓
若槻内閣が総辞職し、田中義一内閣が成立する
↓
憲政会と政友本党が合同し、立憲民政党が成立する

この記事では、日本政党史の第8回として、1925年の男子普通選挙と治安維持法から、1927年の昭和金融恐慌、若槻内閣の退陣、立憲民政党の成立までをたどります。

先に押さえたい五つの言葉

この時期は、法律の通称と正式名称、合法政党と非合法組織、議会と枢密院を区別することが大切です。

言葉意味注意点
男子普通選挙納税額を選挙資格とせず、25歳以上の男性に衆議院議員選挙権を認めた制度女性は対象外で、公私の救恤を受ける人などへの制限もあった
中選挙区制一つの選挙区から原則3〜5人を選ぶ制度同じ党から複数の候補が立つため、他党だけでなく党内でも票を争った
治安維持法国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織・加入などを取り締まった法律1925年法の最高刑は10年。死刑の導入は1928年の改正による
無産政党主に労働者や農民の政治的要求を代表しようとした合法政党の歴史上の呼び方日本共産党と同じではなく、無産政党の間にも路線の違いがあった
枢密院天皇の諮詢に応じて重要な国務を審議した機関衆議院から独立し、政党内閣の政策や緊急勅令案を止めることができた

「普通選挙」という言葉から現在の普通選挙を想像すると、女性や一部の生活困窮者が除外されていた事実を見落とします。また、政党が衆議院で多数を持っていても、内閣を支える権力が衆議院へ一本化されていたわけではありません。

まず流れを確認|1925年から1927年まで

年月日本史上の主な出来事政党史での意味
1925年1月日ソ基本条約調印日本はソ連と国交を結ぶ一方、国内の共産主義運動への警戒を強めた
1925年4月治安維持法公布、政友会総裁が高橋是清から田中義一へ政治運動への取締りを整え、政友会は軍人出身者を党首に迎えた
1925年5月改正衆議院議員選挙法公布、革新倶楽部解党、日本労働組合評議会結成納税要件が撤廃され、犬養毅ら革新倶楽部の多数が政友会へ合流した。労働運動では左派が日本労働総同盟から分かれた
1925年8月護憲三派が崩れ、第2次加藤高明内閣成立共通目標の達成後、三党の連立は終わり、憲政会単独政権へ移った
1926年1月加藤高明死去、第1次若槻礼次郎内閣成立首相の死後も憲政会政権が引き継がれ、政党内閣の継続性が示された
1926年労働農民党、日本労農党、社会民衆党などが結成新しい有権者となる労働者・農民を誰が代表するかをめぐり、無産政党が分かれた
1927年3〜4月昭和金融恐慌震災手形、銀行不安、台湾銀行と鈴木商店の問題が政党間対立と内閣の進退へ結びついた
1927年4月枢密院が台湾銀行救済の緊急勅令案を否決、若槻内閣総辞職、田中義一内閣成立選挙を経ない機関が政党内閣の存続を左右した
1927年6月憲政会と政友本党が合同し、立憲民政党結成政友会と民政党を中心とする二大政党の形が整った

1|1925年に、政治参加の拡大と取締りはどう進んだのか

1925年を政党史から見ると、一つの方向へ進んだ年ではありません。政治参加の拡大、政治運動への取締り、政党再編、外交上の現実的な対応が並行しました。

分野出来事そこから見えること
選挙衆議院議員選挙法の大改正納税要件を撤廃し、有権者を約4倍へ増やした
治安治安維持法の制定国家体制や私有財産制度の変更を目指す運動を取り締まった
政党護憲三派の解体、革新倶楽部の解党、政友会の総裁交代普通選挙実現後、各党が次の政権と新しい有権者をめぐって競争した
外交日ソ基本条約の調印ソ連を国家として承認しながら、国内の共産主義運動は警戒した

1925年4月22日、治安維持法が公布され、5月12日に施行されました。改正衆議院議員選挙法の公布は5月5日です。政治参加を広げる法律より先に、取締りの法律が公布されたことになります。

この順番は、政府が有権者の拡大によって社会主義・共産主義運動が議会政治へ入り込む可能性を警戒していたことを示します。ただし、二つの法律を単純な交換条件としてだけ捉えると、普通選挙運動の長い積み重ねや、第一次世界大戦後の社会運動、ロシア革命、日ソ国交樹立、既存の治安法制を見落とします。

重要なのは、政府が「議会に参加できる人を増やすこと」と「国家体制の変更を目指す運動を取り締まること」を両立できると考えていた点です。

2|「普通選挙法」で何が変わり、何が残ったのか

一般に「普通選挙法」と呼ばれますが、正式にその名前の独立した法律が制定されたわけではありません。1925年に行われたのは、衆議院議員選挙法の大幅な改正です。

選挙権に必要な直接国税の納税額は、制度の改正を重ねるなかで15円以上、10円以上、3円以上へ引き下げられてきました。1925年の改正で、この納税要件が撤廃されます。

1890年の第1回総選挙 直接国税15円以上
↓
1900年改正 10円以上
↓
1919年改正 3円以上
↓
1925年改正 納税要件を撤廃

これにより、有権者は約300万人から約1240万人へ増えました。労働者、農民、都市の勤労層、若い男性など、それまで納税資格を満たせなかった人々が初めて国政選挙へ参加できるようになります。

選挙権が広がっても、対象はすべての成人ではなかった

項目1925年改正の内容残った制限
選挙権25歳以上の男性女性は投票できない
被選挙権30歳以上の男性女性は立候補できない
納税資格撤廃年齢・性別などの制限は残る
救恤を受ける人一部を選挙権から除外貧困を理由とする政治参加の制限が残る
選挙区原則3〜5人を選ぶ中選挙区制一票だけを投じ、同じ党の候補同士も競争する

女性参政権を求める運動も続いていました。市川房枝らが新婦人協会で活動し、1924年には婦人参政権獲得期成同盟会が組織されます。それでも1925年改正は男性だけを対象としました。

「納税額にかかわらず男性が投票できるようになったこと」と、「国民全体に選挙権が認められたこと」は同じではありません。1925年の制度を説明するときは、前進した範囲と、なお除外された人々の両方を見る必要があります。

中選挙区制は、党と候補者の関係を変えた

1925年改正では、原則として一つの選挙区から3〜5人を選ぶ中選挙区制が採用されました。有権者は一人の候補者へ投票します。

大きな政党は、同じ選挙区に複数の候補を立てられます。そのため候補者は、他党の候補だけでなく、同じ党の候補とも票を争いました。

政党本部が複数の候補者を公認する
↓
同じ党の候補者が、それぞれ地域の支持者を集める
↓
後援会、地方議員、業界団体、地域の有力者との関係が重要になる
↓
演説会、新聞、ポスター、選挙運動の費用が増える
↓
党の政策だけでなく、候補者個人の地盤と資金力が選挙を左右する

この仕組みは、原敬の時代に強められた政友会の地方組織や、公共事業を通じた地域との関係を、別の形で重要にしました。普通選挙は有権者を増やしましたが、選挙を行う政党には、全国的な組織、地方支部、候補者、資金を整える力がいっそう必要になったのです。

3|治安維持法は、1925年に何を取り締まったのか

1925年の治安維持法は、第1条で「国体」の変革、または私有財産制度の否認を目的とする結社を組織することや、事情を知って加入することなどを処罰の対象としました。

ここでいう「国体」は、現在の一語へ置き換えるだけでは意味を十分に説明できません。当時の法と政治の文脈では、天皇が統治権を総攬する国家の基本構造と、それを正当化する考え方を含む言葉として用いられました。時期や論者によって意味の幅もあります。

1925年法の対象説明
国体の変革天皇を中心とする国家の基本構造を変えようとする目的
私有財産制度の否認私有財産を基礎とする社会制度を否定しようとする目的
結社の組織・加入目的を持つ団体を作ることや、事情を知って参加すること
協議・扇動・利益供与目的の実行を相談すること、働きかけること、資金などを与えること

1925年法の最高刑は10年以下の懲役または禁錮でした。死刑が最高刑に加えられたのは、1928年の田中義一内閣による改正です。後年の厳しい弾圧を知っているからこそ、1925年の成立時点と、その後の改正・運用拡大を分けて考える必要があります。

1925年 治安維持法制定。最高刑は10年
↓
1926年 京都学連事件などで適用が進む
↓
1928年 三・一五事件後の改正で、最高刑に死刑を導入
↓
解釈と適用対象が拡大し、共産主義者以外の思想・宗教運動にも及ぶ
↓
1941年 全面改正によって取締りの仕組みがさらに強化される

治安維持法が日本で最初の治安立法だったわけでもありません。政府は、集会条例、保安条例、治安警察法などによって集会・結社・言論を規制してきました。関東大震災後には緊急勅令として治安維持令も出されています。治安維持法は、こうした法制の上に、共産主義運動を主な対象として置かれました。

治安警察法と治安維持法も別の法律です。治安警察法が政治集会、結社、労働運動などを広く規制したのに対し、治安維持法は特定の政治目的を持つ結社とその活動を対象にしました。二つは置き換わったのではなく、併存しました。

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