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日本政党史⑧|男子普通選挙から立憲民政党成立まで

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13|立憲民政党の成立で政党系譜はどう整理されたのか

1927年6月1日、憲政会と政友本党が合同し、立憲民政党が成立しました。初代総裁は浜口雄幸です。

立憲民政党は、憲政会が名前を変えただけの政党ではありません。憲政会と、1924年に政友会から分かれた政友本党が一つになって結成した政党です。

立憲民政党へ集まった二つの系譜

憲政会の系譜
1913年 桂太郎の新党計画
↓
立憲同志会
↓
1916年 憲政会
↓
1927年 立憲民政党
政友本党の系譜
1900年 立憲政友会
↓
1924年 清浦内閣への対応をめぐって分裂
↓
政友本党
↓
1927年 立憲民政党
革新倶楽部の系譜
1922年 革新倶楽部
↓
1925年 解党
├─犬養毅ら多数は立憲政友会へ
└─尾崎行雄らは政友会へ入らず

この結果、政党政治の中心は、田中義一を総裁とする立憲政友会と、浜口雄幸を総裁とする立憲民政党へ整理されました。

立憲政友会立憲民政党
自由党系から続く組織を中心とする憲政会と政友本党の合同で成立
革新倶楽部から犬養毅らが加わる改進党系の人々と、政友会から分かれた人々を含む
総裁は田中義一総裁は浜口雄幸
1927年時点の与党1927年時点の野党

政党の名前だけを追うと、二つの整った政党が並んだように見えます。しかし、人の移動を見ると、対立してきた系譜が交わっています。犬養は改進党系から政友会へ入り、政友本党は政友会から分かれた後、憲政会と合同しました。

近代日本の政党では、党名よりも、人物、地方組織、人脈、政権選択が長く残ることがあります。立憲民政党の成立は二大政党制への整理であると同時に、明治以来の政党系譜が組み替えられた出来事でした。

二大政党の形が整っても、政権を決める権力は衆議院だけに集まっていなかった

1918年から1927年までの政党政治を並べると、前進と限界が交互に見えます。

1918年 政友会総裁・原敬が本格的な政党内閣を組織する
↓
1924年 総選挙の結果が加藤高明内閣成立へ結びつく
↓
1925年 有権者が約4倍に増える
↓
1927年 選挙を経ない枢密院の否決で若槻内閣が退陣する
↓
政友会と民政党を中心とする二大政党の形が整う

政党内閣の慣行は機能していました。加藤高明が死去しても、憲政会の若槻礼次郎が内閣を引き継ぎました。若槻退陣後には、政友会総裁の田中義一が首相となります。政党の総裁が政権を担当する流れは続きました。

しかし、明治憲法には「衆議院第一党の党首を首相にする」という規定がありません。内閣は衆議院だけに対して責任を負う制度でもありませんでした。

衆議院政党の外にあった力政党内閣への影響
元老・宮中勢力首相候補の推薦や政権交代に関わる
枢密院憲法・条約・緊急勅令などを審議し、政府案を止める
貴族院法律・予算の成立に必要で、衆議院多数党だけでは政策を通せない
軍陸海軍大臣、軍令、軍事政策を通じて内閣へ影響する
官僚機構政策の立案と執行を担い、政党の人材とも重なる

日本政党史⑦で残った問いは、「選挙結果に基づく政党内閣の慣行は、本当に定着したのか」でした。

1925年から1927年を見ると、答えは二つに分かれます。政党総裁が内閣を組織し、政党同士が政権を争う慣行は続きました。一方、その内閣を止める制度上の力も残っていました。

男子普通選挙と二大政党制だけでは、議会政治は完成しません。誰が投票できるかに加え、選挙結果が首相選定、政策決定、内閣の存続へどこまで結びつくのかを見る必要があります。

現代への学び|参加する人が増えることと、決定の仕組みが整うことは別である

1925年の改正で、有権者は約4倍になりました。投票できなかった多くの男性が、政党と政策を選ぶ立場になります。政党は新しい有権者へ訴えるため、全国組織、演説、新聞、ポスター、社会政策を強めました。

しかし、政治参加の人数が増えることと、政治のすべてが選挙で決まることは同じではありません。女性は投票できず、政治運動には治安法制の制限があり、枢密院、貴族院、軍、官僚など、衆議院選挙を直接の基盤としない機関が大きな力を持ちました。

制度を見るときは、次の三つを分けて考えることができます。

問い1925〜1927年に見えること
誰が参加できるのか納税要件はなくなったが、女性などは除外された
どの方法で参加できるのか選挙と合法政党は広がったが、政治運動への取締りも強まった
最終的に誰が決めるのか衆議院以外の機関も内閣と政策の行方を左右した

参加の拡大を評価するときは、投票できる人数だけでなく、候補者を立てられるか、意見を組織できるか、選挙結果が政権へ反映されるかまで確かめる必要があります。

次回予告

次回は、1928年の第1回男子普通選挙から、田中義一内閣の政治を扱います。

政友会と立憲民政党は、約1240万人の有権者を前に初めて全国規模で競いました。その一方で、三・一五事件による日本共産党関係者の一斉検挙が行われ、治安維持法は改正によって最高刑に死刑が加えられます。

政治参加の拡大が選挙結果に何をもたらしたのか。田中内閣の対中政策と治安政策が、政党政治の方向をどう変えたのかをたどります。

日本史と政党再編の二つの流れから読み直す

男子普通選挙から立憲民政党成立までを、社会と制度の変化から読む場合は「日本史・政治参加の流れ」、金融恐慌から読む場合は「経済と政治の流れ」、政党の離合集散から追う場合は「政党史の流れ」へ進んでください。

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参考資料・出典

国立国会図書館

国立公文書館

アジア歴史資料センター

首相官邸・日本銀行

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