4|なぜ普通選挙と治安維持法が同じ時期に成立したのか
普通選挙と治安維持法が同じ年に成立した理由を、「自由を与える代わりに弾圧した」とだけ説明すると、この時期の政府の考え方を狭く捉えることになります。
加藤高明内閣は、納税額によって政治参加を制限する制度を改め、議会政治の基盤を広げようとしました。一方、政府はロシア革命とソ連の成立、日本国内の労働運動・社会主義運動・共産主義運動を警戒していました。
政府の考え方を整理すると、次のようになります。
| 認める範囲 | 取り締まる範囲 |
|---|---|
| 選挙を通じて議員を選ぶ | 国家の基本構造を変えることを目的とする結社 |
| 合法政党を組織し、議会で政策を争う | 私有財産制度の否認を目的とする組織活動 |
| 労働者・農民の要求を合法的な政党活動へ結びつける | 政府が革命運動とみなした活動 |
この組み合わせは、1925年だけに見られるものではありませんでした。
制度内の政治参加を広げながら、政府が制度外と判断した運動を取り締まる。この二つは、近代日本の政治で繰り返し同時に進みました。
1925年1月、日本は日ソ基本条約を結び、ソ連との国交を樹立しました。ここにも同じ年の二つの判断があります。政府は外交ではソ連を国家として承認し、漁業や権益を含む現実の国際関係を整えました。その一方、国内では共産主義運動の拡大を警戒しました。
国家間の外交と、国内の政治運動への対応は別の判断です。「ソ連と国交を結んだから共産主義を認めた」「共産主義を警戒したからソ連と交渉しなかった」という単純な関係ではありません。
5|普通選挙の実現後、護憲三派はなぜ崩れたのか
1924年、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部は、清浦奎吾内閣に対抗して護憲三派を組みました。総選挙で三派が多数を占め、憲政会総裁・加藤高明の内閣が成立します。
しかし、護憲三派は一つの政党ではありません。清浦内閣を退陣させ、政党内閣を回復し、普通選挙を実現するという共通目標のための連合でした。
| 政党 | 主な系譜 | 護憲三派で協力した理由 | 協力後に残った違い |
|---|---|---|---|
| 憲政会 | 桂太郎の新党計画→立憲同志会→憲政会 | 清浦内閣に対抗し、政権を得る | 政権運営の主導権を握る |
| 立憲政友会 | 自由党系→憲政党→政友会 | 政党内閣を回復し、政友本党へ対抗する | 憲政会とは政権を争う競争相手 |
| 革新倶楽部 | 立憲国民党の一部など→革新倶楽部 | 普通選挙と政党内閣を求める | 小党として独自性を保つか、大政党へ合流するかが問題になる |
普通選挙法が成立すると、三党を結びつけた主要な目的の一つが達成されました。その後は、税制、行政整理、外交、軍事、政権内の人事などをめぐる違いが表面に出ます。
1925年8月、政友会は加藤内閣への協力をやめました。第1次加藤高明内閣は終わり、憲政会を中心とする第2次加藤高明内閣が成立します。
護憲三派の解体は、三党が政党政治を否定したためではありません。共通の相手と目標を失い、各党が次の政権を競う関係へ戻った結果でした。連立の成立理由と、その理由がなくなった後の関係を分けて見る必要があります。
6|革新倶楽部の解党と犬養毅の政友会入りは何を意味したのか
1925年5月、革新倶楽部は解党し、犬養毅ら多数が立憲政友会へ入りました。ただし、所属議員全員が合流したわけではありません。尾崎行雄らは反対し、政友会へ入りませんでした。
これは革新倶楽部が名前を変えて政友会になったのではなく、政党を解き、所属していた人々の多数が既存の政友会へ合流した出来事です。
犬養の所属政党をたどると、明治以来の政党系譜が見えます。
犬養は約43年間、立憲改進党から続く系譜で活動してきました。その犬養が、長く競争相手だった自由党系の政友会へ入りました。
この選択は、二つの面から評価できます。小党のままでは新しい普通選挙のもとで全国組織と資金を整えにくいため、大政党に入って政策を実現しようとした現実的な判断と見ることができます。一方、長く守ってきた政党系譜と独自性を手放したと見ることもできます。
記事として断定できるのは、犬養が政党政治を捨てたということではありません。普通選挙後の大規模な選挙を前に、どの組織で政党政治を続けるかを選び直したという点です。
7|田中義一は、なぜ政友会総裁に迎えられたのか
1925年4月、高橋是清に代わり、田中義一が立憲政友会総裁となりました。田中は陸軍大将を務めた軍人出身者です。
ここで「政友会が軍部の政党になった」と説明するのは適切ではありません。政友会は全国的な地方組織と多数の衆議院議員を持つ既存政党であり、その組織へ軍人出身の田中が総裁として迎えられました。
| 政友会が田中に期待したもの | 田中が政友会から得たもの |
|---|---|
| 原敬後の指導力と党内統率 | 全国組織と衆議院の議席 |
| 政権を担える知名度と政府内の人脈 | 首相を目指す政治的基盤 |
| 軍・官僚・政府有力者との調整力 | 軍人から政党政治家へ活動する場 |
高橋是清は財政運営に強みを持ちましたが、原敬の死後、政友会内の対立を収められませんでした。政友会は、総裁に党内をまとめ、政権を取り戻す役割を求めます。田中の陸軍での経歴と政治的人脈は、その期待に合いました。
軍人が政党の外から内閣へ入ったのではなく、大政党の総裁となり、党組織を基盤に首相を目指した点が重要です。軍と政党の距離が近づいた事例ではありますが、軍と政党を同じ組織として扱うことはできません。
8|新しい有権者を、どの政党が代表しようとしたのか
有権者が約4倍になると、政党の活動方法も変わります。地域の有力者と限られた納税者だけを組織する方法では、新しい選挙へ対応できません。
労働運動の内部でも、政治運動との関わり方をめぐって違いが表面に出ていました。1925年5月には左派が日本労働総同盟から分かれ、日本労働組合評議会を結成します。
1926年には、労働者・農民を主な基盤とする複数の無産政党が組織されました。「無産」は、生産手段を持たず、賃金労働などで生活する人々を指す当時の言葉です。
| 政党 | おおよその位置 | 特徴 |
|---|---|---|
| 労働農民党 | 左派 | 労働・農民運動との結びつきが強く、内部に左派勢力を含んだ |
| 日本労農党 | 中間派 | 麻生久らを中心に、左派と右派の間で合法的な大衆政党を目指した |
| 社会民衆党 | 右派 | 議会と合法運動を重視し、社会政策の実現を求めた |
無産政党は一つの集団ではありません。革命と議会の関係、労働組合との距離、共産主義者を党内に含めるかなどをめぐり、左派・中間派・右派に分かれました。
これらの合法政党と、日本共産党も区別する必要があります。日本共産党は一般に1922年に秘密裏に結成されたとされ、1923年の検挙で打撃を受け、1924年にいったん解党しました。その後、1926年12月に再建されます。政党名を持っていても、選挙へ公然と候補者を立てる合法政党と、非合法の秘密組織では活動条件が異なりました。
普通選挙の実現は、労働者と農民の要求が自動的に国政へ反映されることを意味しません。誰が候補者を立て、全国組織を作り、政策をまとめ、取締りの範囲内で活動できるかによって、政治参加の実質は変わりました。

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