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日本政党史⑧|男子普通選挙から立憲民政党成立まで

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9|加藤高明の死後も、なぜ憲政会政権は続いたのか

1926年1月、首相・憲政会総裁の加藤高明が死去しました。後継首相となったのは、内務大臣を務めていた若槻礼次郎です。

原敬が暗殺された後、政友会は高橋是清内閣を組織しましたが、党内対立によって約7か月で退陣し、その後は非政党内閣が続きました。これに対し、加藤の死後は、若槻が憲政会政権を引き継ぎました。

原敬死後加藤高明死後
高橋是清が政友会内閣を継承若槻礼次郎が憲政会内閣を継承
党内対立で早期に退陣少数与党ながら政党内閣を継続
非政党内閣が続く政党内閣の慣行が保たれる

若槻は大蔵官僚として経歴を重ね、大蔵大臣、内務大臣などを務めた人物です。当時の政党指導者には、原敬、加藤高明、床次竹二郎、若槻礼次郎、後の浜口雄幸など、官僚経験を持つ人が多くいました。

これは、政党が国家の行政を担える人材を得たという面があります。一方で、政党と官僚機構の境界が分かりにくくなり、官僚出身者の人脈と行政経験に依存した面もありました。

若槻内閣は衆議院で安定した過半数を持たず、政友本党の協力を必要としました。陸軍機密費をめぐる朴烈事件の写真問題なども野党の攻撃材料になります。ただし、こうした問題だけで内閣が倒れたわけではありません。政党間の不安定な協力関係へ金融危機と枢密院の対立が重なったことが、1927年の退陣につながります。

10|金融恐慌は、なぜ政党間対立へ発展したのか

1927年の昭和金融恐慌は、片岡直温大蔵大臣の発言だけで起きたものではありません。第一次世界大戦後から積み残された企業と銀行の不良債権、関東大震災後の震災手形、台湾銀行と鈴木商店の密接な取引が重なっていました。

金融不安は、第一次世界大戦後から積み残されていた

第一次世界大戦中の好景気で、企業と銀行が事業を拡大する
↓
1920年の戦後恐慌で、企業の経営が悪化する
↓
銀行の貸出金が回収しにくくなる
↓
1923年の関東大震災で、決済できない手形が増える
↓
震災手形として支払いを猶予し、急な倒産を防ぐ
↓
回収できない債権が金融機関に残る
↓
1927年、処理方法をめぐる政治対立と信用不安が表面化する

震災手形は、被災直後の企業倒産と銀行の連鎖破綻を避けるための措置でした。しかし、震災以前から経営が悪化していた企業の債務も含まれ、問題を将来へ持ち越す結果になります。

若槻内閣は、震災手形の処理法案を議会へ提出しました。これに対して政友会は、処理の不透明さや特定企業・銀行の救済につながる点を追及します。経済問題は、若槻内閣と野党・政友会の政治対立になりました。

1927年3月14日、片岡大蔵大臣は衆議院の委員会で、東京渡辺銀行が休業したと受け取られる発言をしました。同行はその時点では営業を続けていましたが、翌日に休業します。この発言をきっかけに銀行への不安が高まり、預金者が一斉に預金を引き出そうとする取り付け騒ぎが起きました。

銀行は、預金の全額を現金のまま保管しているわけではありません。企業への貸出や手形の割引に使っています。そのため、経営が健全な銀行でも、多数の預金者が同時に現金を求めれば支払いが難しくなります。

段階出来事政治への影響
第1波片岡蔵相の発言、東京渡辺銀行休業、各地の取り付け政府の説明と金融行政への信頼が低下した
一時沈静化日本銀行が非常貸出を行う中央銀行による資金供給で危機の拡大を抑えた
第2波台湾銀行と鈴木商店の経営問題が表面化一企業・一銀行の問題を超え、政府保証と国家財政の問題になった

台湾銀行と鈴木商店は、なぜ切り離せなくなっていたのか

台湾銀行は台湾の植民地経営に関わる特殊銀行でしたが、日本国内の企業にも多額の融資を行っていました。なかでも大手商社・鈴木商店との取引が大きく、同行の貸出は鈴木商店とその関連企業へ集中していました。

鈴木商店の経営が悪化すれば、台湾銀行の資産も傷みます。台湾銀行が融資を止めれば、鈴木商店は資金繰りができません。日本銀行『日本銀行百年史』が両者を「一蓮托生」と表現するほど、双方が切り離しにくい関係になっていました。

鈴木商店が事業を拡大する
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台湾銀行が多額の融資を行う
↓
戦後恐慌と震災で、鈴木商店の経営が悪化する
↓
台湾銀行の貸出が固定化し、回収できなくなる
↓
台湾銀行が新規融資を止める
↓
鈴木商店の資金繰りが行き詰まる
↓
台湾銀行そのものへの信用不安が強まる

金融恐慌を政治史として見ると、政党は銀行を救うかどうかだけでなく、誰の損失を誰が負担するのか、議会で審議するのか、緊急勅令を使うのかという判断を迫られたことが分かります。

11|枢密院は、なぜ若槻内閣を退陣へ追い込めたのか

若槻内閣は、台湾銀行へ日本銀行が特別融資を行い、その損失を政府が補償するため、緊急勅令案を用意しました。金融危機の拡大を防ぐため、通常の議会手続きではなく、明治憲法の緊急制度を使おうとしたのです。

しかし、緊急勅令には枢密院の審査が必要でした。枢密院は、天皇の諮詢に応じて重要な国務を審議する機関で、衆議院や内閣から独立していました。枢密顧問官は選挙で選ばれた議員ではありません。

枢密院では、議会を召集できない場合に当たらず、緊急勅令を使う憲法上の要件を満たさないといった批判が出されました。1927年4月17日、枢密院は緊急勅令案を否決します。若槻内閣は翌18日に総辞職しました。

金融恐慌が再燃する
↓
若槻内閣が台湾銀行救済の緊急勅令案を作る
↓
枢密院が審査する
↓
「議会を召集できないほどの緊急事態か」などをめぐり否決する
↓
内閣は勅令を出せず、総辞職する

若槻内閣の退陣を「大蔵大臣の失言で倒れた」とだけ説明すると、明治憲法下の政治構造を見落とします。金融恐慌、震災手形処理をめぐる政党間対立、台湾銀行と鈴木商店の問題、緊急勅令をめぐる枢密院との対立が重なって退陣しました。

枢密院の否決理由にも、法的な論点と政治的な対立の両方がありました。緊急勅令を使う条件が本当に満たされているのかという問題がある一方、若槻内閣の対中政策などへの反発も背景にあったと研究されています。

ここで最も重要なのは、政権交代の回路です。

1924年の加藤高明内閣成立1927年の若槻内閣退陣
衆議院解散後に総選挙が行われた総選挙は行われていない
護憲三派が多数を占めた衆議院の不信任決議ではない
選挙結果を受けて清浦内閣が退陣した枢密院が緊急勅令案を否決した
第一党総裁の加藤高明が首相となった若槻内閣が総辞職し、田中義一が首相となった

1924年には、選挙が政権交代へ結びつきました。1927年には、選挙を経ない枢密院の判断が政党内閣の存続を左右しました。政党内閣の慣行が成立しても、内閣の生死を決める権力が衆議院だけに集まったわけではなかったのです。

12|田中義一内閣は、金融恐慌へどう対応したのか

若槻内閣の後を受け、1927年4月20日、立憲政友会総裁・田中義一が首相となりました。田中内閣で大蔵大臣を務めたのは高橋是清です。

高橋は、全国の銀行を一時休業させる措置と、3週間の支払猶予令、いわゆるモラトリアムを実施しました。日本銀行は多額の資金を供給し、預金の引き出しへ対応します。政府と日本銀行が支払いに必要な現金を用意する姿勢を示したことで、取り付けの連鎖は収まっていきました。

対応目的
銀行の一斉休業預金の引き出しが連鎖する時間を止める
モラトリアム支払い期限を猶予し、現金不足による破綻を防ぐ
日本銀行の非常貸出銀行へ現金を供給し、預金払い戻しへの不安を抑える
台湾銀行への処理台湾銀行と鈴木商店の問題を、法律と政府保証を通じて整理する

高橋は、原敬の死後に政友会総裁と首相を務めたとき、党内をまとめられずに退陣しました。しかし、大蔵大臣としては金融危機へ対応し、恐慌を収束へ向かわせました。

同じ人物でも、政党を統率する力と、財政・金融を運営する力は同じではありません。高橋の評価が、政友会総裁として見るか、大蔵大臣として見るかで異なる理由です。

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