教育勅語は、敗戦後に日本国憲法と教育基本法による教育へ転換したことで、教育の根本原理としての地位を失いました。1948年6月19日、衆議院は排除を決議し、参議院はすでに失効していることを確認しました。
教育勅語を歴史から考える|全10回シリーズ
この記事でわかること
- 教育勅語が学校へ広まった仕組み
- 御真影・奉安殿・修身教育との関係
- 戦後に教育原理から外された理由
- 現在の法的・教育的な位置づけ
教育勅語は学校儀礼を通じて広まった
1890年に教育勅語が下されると、謄本が学校へ配られました。祝祭日や学校行事では校長が奉読し、児童生徒は厳粛な態度で聞くことを求められます。
教育勅語は、読むための文章だけではありませんでした。天皇・皇后の写真である御真影とともに大切に扱われ、学校空間のなかで天皇と国家の権威を感じさせる役割を持つようになります。
御真影と奉安殿が神聖な権威を高めた
御真影や教育勅語謄本を保管する場所として、奉安庫や奉安殿が設けられました。教職員は火災や災害の際にもこれらを守ることを求められ、その扱いはしだいに神聖化します。
こうした儀礼は、教育勅語の文章を理解するだけでなく、天皇への敬意と忠誠を身体的に学ばせる働きを持ちました。
ひこまる文章の内容より、扱い方そのものが大きな意味を持ったの?



その通りじゃ。奉読や礼拝の儀礼が、勅語を反論しにくい特別な教えへ変えていった面があるのじゃ。
修身教育の中心的な基準になった
学校の修身科では、教育勅語の徳目に沿った教材が用いられました。家族、友人、勤勉、公益などを学ぶ一方、それらは天皇への忠誠と国家への奉仕へ結びつけられます。
ただし、1890年から1945年までの学校教育が常に同じだったわけではありません。時期、学校、地域によって教え方は異なり、とくに戦時体制が強まるなかで国家への忠誠と自己犠牲が強調されました。
敗戦後、教育の原理が転換した
1945年の敗戦後、日本の教育は、天皇を中心とする国家のための教育から、個人の尊厳、民主主義、平和を重んじる教育へ転換します。1946年に日本国憲法が公布され、1947年には教育基本法が制定されました。
国民主権と基本的人権を基礎とする新しい憲法の下では、主権在君の国家観に基づく教育勅語を教育の根本原理として維持できませんでした。
衆議院は「排除」を決議した
1948年6月19日、衆議院は「教育勅語等排除に関する決議」を行いました。教育勅語などの根本理念が主権在君と神話的国体観に基づき、基本的人権と国際信義に問題を残すとして、教育の指導原理として認めないことを宣言しました。
政府に対しては、学校などに残る謄本を回収し、排除を完了するよう求めています。
参議院は「失効確認」を決議した
同日、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行いました。教育勅語などは、日本国憲法と教育基本法による新しい教育理念が成立した結果、すでに廃止され、効力を失っていることを確認しました。
衆議院が教育現場からの「排除」を宣言したのに対し、参議院は法的・教育的効力がすでに失われている事実を明らかにした点に違いがあります。



「廃止された」と「失効が確認された」は同じ意味?



似ているが経緯が違うのじゃ。新憲法と教育基本法で効力を失い、国会が排除と失効を明確に確認したのじゃよ。
現在、教育の指導原理ではない
教育勅語は現在、法的効力を持たず、日本の教育の指導原理でもありません。歴史資料として授業で扱うことはできますが、国民主権や基本的人権など、日本国憲法と教育基本法の理念に反する形で教えることは許されません。
教育勅語の個々の徳目を読む場合も、文書全体の国家観と、学校でどのように運用されたかを隠さず説明する必要があります。



ここまでの話で、出来事の背景と後の影響を分けて見ることが大切だと分かったよ。



歴史は一つの言葉だけで決めつけず、いつ、誰が、どのように考え使ったのかを確かめるのじゃ。
失効までの歴史から見えること
教育勅語は、学校儀礼と修身教育を通じて大きな権威を持ちました。しかし敗戦後、国民主権・基本的人権・平和を基礎とする教育へ転換し、教育原理としての効力を失います。1948年の国会決議は、その排除と失効を明確にしました。
成立から戦後までの概要は教育勅語とは?学校が天皇と国民を結びつけた仕組みでも解説しています。
参考資料・参考図書
- 伊藤哲夫『教育勅語の真実』致知出版社、2011年、pp.142–166
- 参議院「教育勅語等の失効確認に関する決議」
- 衆議院「教育勅語を道徳科の授業で扱うことに関する質問に対する答弁書」
- 文部科学省『学制百年史』「明治憲法と教育勅語」






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