日露戦争で日英同盟は何をしたのか
1904年、日本とロシアの日露戦争が始まりました。イギリスは条約の規定どおり中立を保ち、ロシアと直接戦いませんでした。
それでも、同盟には大きな効果がありました。ロシアと同盟関係にあったフランスが参戦すれば、イギリスも日本側で戦う可能性が生じるため、戦争を日露二国間にとどめる抑止になったからです。
ただし、日英同盟だけで日本が勝利したわけではありません。日本軍の戦闘、国内の税負担、英米市場での外債募集、ロシア側の事情など複数の要因がありました。同盟は戦争の条件を有利にした重要な外交上の支えです。
第二次日英同盟|韓国支配を認め合う
日露戦争中の1905年8月12日、両国は同盟を改定しました。第二次日英同盟は適用範囲をインドまで広げ、第一次より強い相互援助を定めます。
イギリスは日本が韓国で持つ「卓絶なる政治上、軍事上及経済上の利益」を認め、日本はイギリスによるインド支配と防衛上の利益を認めました。両国が互いの植民地・勢力圏を支える取り決めでもありました。
改定から約3か月後、日本は第二次日韓協約によって韓国の外交権を奪います。その先に1910年の韓国併合がありました。
第三次日英同盟|1911年に何が変わったのか
1911年7月、同盟は再び改定されました。日露戦争後、日本とアメリカの関係には移民問題や中国・太平洋の権益をめぐる緊張が生じていました。一方、イギリスはアメリカとの関係を重視します。
第三次同盟には、どちらか一方が一般的な仲裁裁判条約を結んでいる国との戦争には同盟義務を適用しないという規定が加わりました。イギリスがアメリカとの戦争へ巻き込まれる可能性を避ける意味があり、同盟の対象は狭められました。
第一次世界大戦では、どう使われたのか
1914年、第一次世界大戦が始まると、イギリスは日本へドイツ海軍への対応を求めました。日本は日英同盟を理由の一つとしてドイツへ宣戦し、中国・山東半島の青島と、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領します。
日本海軍は太平洋・インド洋の航路警備に加え、地中海へ艦隊を派遣して連合国側の輸送を護衛しました。同盟はロシアを抑えるために始まりましたが、世界大戦では日本の対独参戦と海外権益拡大の根拠にもなりました。
なぜ日英同盟は終わったのか
第一次世界大戦後、国際関係は変わりました。ロシア帝国は革命で崩壊し、同盟が当初想定した共通の脅威は弱まります。その一方、太平洋では日本とアメリカの海軍・権益をめぐる競争が問題となりました。
イギリスにとって、アメリカとの関係を損なってまで日英同盟を維持する利益は小さくなりました。1921〜1922年のワシントン会議で、日本・イギリス・アメリカ・フランスは太平洋の権利と協議を定める四カ国条約へ署名します。
四カ国条約の発効に伴い、日英同盟は1923年に失効しました。日本とイギリスがただちに敵対したわけではありませんが、二国同盟から多国間の協調体制へ枠組みが変わったのです。
日英同盟の20年を時系列でたどる
立場を変えると、同盟はどう見えるのか
日英同盟の歴史上の意味
日英同盟は、日本が欧州の大国と結び、ロシアに外交上の孤立を突かれない体制を整えた同盟でした。日露戦争を二国間の戦争にとどめ、戦費調達や海軍協力を支える環境をつくった点は重要です。
一方、同盟は日本とイギリスが清国・韓国・インドに持つ権益を認め合う、帝国主義の時代の取り決めでした。日本の国際的地位が高まった面だけでなく、日本の韓国支配と海外進出を支えた面まで見ることで、同盟の全体像が分かります。
次に読みたい記事
参考資料
- 大石学監修『世界のなかの日本の歴史 一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、200〜209頁
- 国立公文書館「日露戦争——日英同盟」
- 国立公文書館「第1次日英同盟協約が締結される」
- 国立公文書館「第2次日英同盟協約が締結される」
- 外務省外交史料館「外交史料 Q&A 明治期——第1回日英同盟協約」
- アジア歴史資料センター「第2回日英同盟協約」

コメント